GEKKAN-WIEN ウィーン日誌

平成元年創刊 ウィーン現地オリジナル取材と編集「月刊ウィーン GEKKAN-WIEN 」編集長が綴る

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Verfolgt.Verlobt.Verheiratet

ユダヤ広場博物館 Jüdisches Museum Wien Judenplatz(1区Judenplatz 8) は企画展「迫害・婚約・結婚」を5月16日から10月7日まで開催。1938年3月、オーストリアのユダヤ人女性にとって生き残りは時間の問題だった。迫害から逃れるため、外国人と偽装結婚し国外脱出を試みたウィーンの女性がいた。すでに亡命して国外にいたユダヤ人女性も、無国籍を避けるため、職を得るために、偽装結婚した。そうした女性の中から13人を選び、様々な人生を紹介する。開館は日曜から木曜の10時から18時、金曜は10時から17時。入館料は、ユダヤ博物館 Jüdisches Museum Wien(1区Drotheergasse 11)とコンビで12ユーロ。

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生き残るための偽装結婚

ユダヤ広場博物館 Jüdisches Museum Wien Judenplatz(1区Judenplatz 8) は興味深い企画展「迫害・婚約・結婚」を開催している。1938年3月、ナチスドイツのオーストリア併合により、オーストリアのユダヤ人にとって生と死は時間の問題だった。ナチスによる迫害から逃れるため、亡命に成功したユダヤ人もいたが、オーストリア国内にいて処刑されたり、のちに強制収容所送りになった者も多い。ウィーンのユダヤ人女性の中には外国人と偽装結婚し国外脱出を試みた者がいた。すでに亡命して国外にいたユダヤ人女性も、無国籍を避けるため、職を得るために、偽装結婚した。このことは最近になって本人や家族や友人が語り始めている。ユダヤ広場博物館の企画展はそのようなウィーン女性の中から13人を選び、様々な運命を紹介している。

この13人の女性の中で、生き残ることができて再びウィーンで活躍する劇場支配人ステラ・カドモン Stella Kadmon と、生き残ることができずにアウシュヴィッツで殺されたヴァイオリニストのアルマ・ロゼ Alma Rosé を紹介したい。二人の名は今、ウィーンの町名に残されている。

ステラ・カドモンは1902年ウィーンに生まれ、アカデミー(現ウィーン音大)で演劇を学び、ウィーンだけでなくドイツ各地でも舞台女優として活躍し、1931年にはカフェ・プリュッケル(1区)の地下に小舞台を創設して支配人となった。しかしこの小劇場は1938年のオーストリア併合で閉鎖された。危機の迫ったステラ・カドモンは母親と弟と共に、在オーストリア・ギリシャ大使館が発行してくれた出国ヴィザのおかげで、親戚のいるベオグラードに向かう。しかしベオグラードの当局は不法滞在だとしたため、家族はそこに長期滞在はできず、出国命令が出ていた。観光ヴィザでパレスティナに入国するために必要なお金は家族全員分はなかった。そこでステラは、ユーゴスラヴィアの国籍をとって無料でパレスティナへの観光ヴィザを得るにはユーゴスラヴィアの国籍を持つ従兄のボビー・カドモンと偽装結婚するしかないという結論に至った。国籍を取るには最低6か月の結婚生活が必要だった。ようやくパレスティナに入国できたステラ・カドモンは、そこでも小演劇活動を行い、1947年にパレスティナから171人と共に故郷ウィーンに帰還した。ウィーンの劇場で再び活躍し、数々の栄誉に輝き、1989年にウィーンで亡くなった。偽装結婚についてはずっと口を閉ざしていたが、ついに晩年になって語り、またギリシャ大使館にはいつも感謝の気持ちを忘れなかったと述べている。ドナウ運河のほとりにある1区の住居には記念銘板がついている。

不条理な多くの困難と苦境に直面しても、これを乗り越えて天職を全うした女優ステラ・カドモンとは逆に、ヴァイオリン演奏家アルマ・ロゼの場合はあまりにも残酷で悲しい。1906年ウィーン生まれで、父アルノルト・ロゼは宮廷歌劇場管弦楽団のコンサートマスター、ウィーン・フィル団員、ロゼ弦楽四重奏団のリーダーだった。母は作曲家グスタフ・マーラーの妹。アルマという名前は、叔父グスタフ・マーラーの妻で画家シンドラーの娘アルマからもらっている。父アルノルトの弟でロゼ弦楽四重奏団のチェリストである叔父のエドゥアルトの妻もグスタフ・マーラーの妹である。アルマ・ロゼは当時のウィーンの音楽界のエリートファミリーとして幼い時からヴァイオリンの手ほどきを受け、20歳で楽友協会にデビューしている。1930年にチェコのヴァイオリニストと結婚しプラハに移り住み、チェコスロヴァキアの国籍も得た。これは後に父の亡命に大いに役立つ。1935年に離婚してウィーンに戻って演奏活動を続けた。1938年のオーストリア併合で、父と共にロンドンに逃げ、その後アルマだけはオランダで演奏活動を行っていた。しかしオランダが1940年ナチスドイツに占領される前に、アルマは英国ヴィザを延長できずロンドンに帰ることができなかった。強制収容所にいつ送られてもおかしくない状況で、唯一の望みはユダヤ人でない男性と偽装結婚することだった。1942年にオランダ人と結婚したが、ナチスドイツはユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止し、アルマは窮地に立たされた。フランスに逃げるがゲシュタポに逮捕され、現地の国際収容所に数か月間監禁された後、数千人と共にアウシュヴィッツ強制収容所に家畜用列車で3日がかりで運ばれた。アウシュヴィッツでは女性オーケストラのリーダー(指揮とヴァイオリン)になって、一時的に命を取り留めることはできたが、1944年4月、36歳で亡くなった。死因は2日前に食べたものによる食中毒と推定されているが、毒殺説もある。女性オーケストラのその他の団員は生き残り、アウシュヴィッツでのオーケストラの体験を記録した者もいる。

(月刊ハンガリージャーナル 2018年6月号  福田和代の「ウィーン便り」より抜粋)

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